テレビドラマ嫌われる勇気に対する論争に思うこと

こんにちは、アドラー心理学とマインドフルネスを趣味とするmind-adlerです。
今日はアドラー心理学のテレビドラマ、嫌われる勇気について起こった論争について私の意見を述べたいと思う。2013年に発売され、大ベストセラーとなっている「嫌われる勇気」(ダイヤモンド社)を原案とした刑事ドラマ『嫌われる勇気』がフジテレビで1月から放送された。そのテレビドラマについてアドラー心理学を学ぶ団体から様々な意見が出ている。まず、2月3日日本アドラー心理学会がフジテレビに抗議文を提出。http://adler.cside.ne.jp/
この内容を抜粋すると
・貴社が製作・放映しておられますドラマ『嫌われる勇気』の内容について、 きわめて重大な問題があると認識いたしまして、善処をお願いいたしたく本書状をさしあげます。
・日本及び世界のアドラー心理学における一般的な理解とはかなり異なっているように思えます。そのような一般的でない見解を、テレビのような公共的な場で、あたかもそれがアドラー心理学そのものであるかのように普及宣伝されるのは、日本のアドラー心理学の啓発・普及に対して大きな妨げになると考え、本学会としては困惑しております。
・ドラマ『嫌われる勇気』の中では、たとえば「私はただ、感じたことを口にしているだけ」と言っている主人公を「ナ チュラルボーンアドラー」としているなど、「相互理解のための努力」や「一致に 到達する努力」や「意見や信念を分かちあうための努力」の側面を放棄しているように見受けられます。
・放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております。 早急に御検討いただき、善処いただければさいわいです。
この文を見る限り、日本アドラー心理学会の活動に差し障りがあるので困っている、手直しするかやめて貰えませんかと言っているわけである。
この文章の中には一言も正しい、間違っているという言葉が出て来ない。「一般的な理解とはかなり異なっているように思えます。」「・・側面を放棄しているように見受けられます。」と意見言葉を使っている。さすがだと思う、あくまで我々が考えるアドラー心理学とは違っていますよということを言っているに過ぎない。
それに対して反応したのがもう一つの団体、日本臨床・教育アドラー心理学研究会のF氏である。
取材に対して
「私自身は、一視聴者としてドラマを楽しんでいたので、『あんな抗議をしなくてもいいだろう』と思ったのが正直なところでした。私の周りでアドラー心理学を学んでいる仲間からは、主人公の表現の仕方などにはあれこれと意見が出ているものの、それは学術的にどうこうという話ではなく、あくまでも個人の好き嫌いの範囲です。」
と述べておられる。これも取材でのコメントはさすがで、正しい、間違っているという言葉は使っておられなくて自分の意見として述べられている。
この時点ではどちらもアドレリアンとして矛盾のない対応のように思える。
アドレリアンは価値相対論を大事にしていて、自分が正しい、相手が間違っているという議論をしない(ように思う)。
私はこう思うのですが、あなたはどうですか?
私はこう思うので〇〇して頂けませんか?(〇〇をやめて貰えませんか?)
と建設的な議論を好んでいる。もちろん相手には断る権利があり、それを認めているのもアドラー心理学の特徴だと思っている。
自分がこう思っているということ自体は誰も否定は出来ないし、そもそもアドレリアンは相手の考えを否定しない(自分とは違っているとは言う)。
しかし、F氏のブログを見て見ると、
http://taichi-psycho.cocolog-nifty.com/
・それで勝手に怒ってクレームつけている人がいるわけだ。
・アドラー仲間の友人として言いたくなるのは、やっぱり日本アドラー心理学会は間違ったんじゃないかな。謝るなら今のうちだよ。
・大体、日本アドラー心理学会に嫌われて存在まで否定されるなんて、最高のアドレリアンだよ。
・あっ、日本アドラー心理学会さん、振り上げた拳を下すなら早めがいいですよ。
・私としては、抗議をするような人たちに「あんなのアドラーじゃない!」「アドラーの思想とかけ離れている!」と怒り狂わせといて、
とある、これはどうだろうか?
冒頭でも引用したように抗議文の中に怒り狂っている、存在を否定しているという文言、印象は見られないし、怒りを使わず理性的に対話するというのがアドレリアンだと思っている。
F氏は日本アドラー心理学会は間違った、謝るなら今と相手を裁いている。
皆さんはこれはアドレリアンの発言としてどう思われますか?
一方、F氏は
そういう目で見ると、「正しいアドラー心理学」を標榜するあの人に何となくダブって見えなくもないというか…。あの人も何かとよく否定していたような印象が…。
とも書かれている、これはおそらくAG社代表N氏のことを言っておられるのだろうが、この意見には・・・うん少し賛成かな、いやかなり賛成かも(笑)。N氏のブログを読んでいる限り、競合的とも思える発言があることは確かだ。N氏は他派の考えにはものすごく寛容だが、アドラー心理学に対しては妥協を許さないと感じる。
結局F氏も日本アドラー心理学会の抗議をライフタスクと感じて競合的な対処行動をしたわけだ。F氏の仮想的目標は・・話してみないと分からないが、ブログの文章から何となく分かるような気がする。
まあ、どちらにせよ対話していないので全部が私の仮想:Fictionalismなのだ、その証拠に事実は引用部分しかなくて、あとは全部意見(report)だ。
今回のことで私が感じたことは、お互い対話がなく文章のやり取りだけで意見が飛び交ったこと(その間にマスコミがはさまっている)が誤解を招いたのではないだろうか?F氏も言っているように人は統覚フィルターがあるため自分に都合の良いように物事を認知する。対話がアドラーが大事にしていたことなのに、その弟子たる我々が対話をしないでお互い誤解を招くことは如何なものかと思う。
ちなみに、アドラー心理学の講座や講演を行っている HG社の代表I氏はどうか?
・22:00 から連続TVドラマ「嫌われる勇気」を観ましたが正直言って期待外れでした。
何よりも香里奈の演ずる刑事を「ナチュラル・ボーン・アドラー」として扱うのはクレームものです。
あの人物像が「生まれながらに自然にアドラー心理学のライフスタイルと共同体感覚を備えた人」として受け入れられるでしょうか?
I氏のブログから引用 http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20170113
この記事を見る限り、I氏も主人公の庵堂蘭子がアドラ-心理学を備えた人とされているのに違和感を覚えていることが分かる。しかし彼は公に抗議や批判などはせず、あくまでテレビ番組でアドラー心理学の啓蒙ではない、アドラー心理学を学ぼうとする人は自分で本を読んだり講座を受けるはずだとコメントで語っている。I氏は「寛容さを伴ったアドラー心理学」を謳っておられる。なるほど、視聴者に対する信頼と他者の意見に対する寛容さが伺える。実際、書籍嫌われる勇気を読まれた読者の方の中にはドラマに違和感を覚えられて、ネット上で批判しているコメントも見受けられる。
例えるなら、マフラーなしのバイクで走っているものに対して、うるさいのでマフラーをつけるか、走るのをやめてもらえませんか?と言っている人と、何を言っているんだ、バイクのエンジン音を楽しんで聞いているのに邪魔するな!という人と、私はうるさいと思うが、どちらの意見も尊重しましょうという人がいるわけだ。
結果論だが私はI氏の対応が一番適切だったのではないだろうかと思っている。当事者のバイクの運転者と対話しないのなら批判もしないのが良い。
アドレリアンが同士が正しい、間違っているの権力争いに陥らず、みんな仲良く協力できる、そんな日が来ることを願っている。